『さよなら、サイレント・ネイビー』(続:死刑について)   

著者の伊東氏は,豊田被告の犯罪の99%は社会に責任があると書いていますが,もちろん彼が無罪だと言っているわけではありません.どのような理由があっても人を殺したという罪は消しようがありません.

問題は,豊田被告が求刑され,二審まで支持された「死刑」にあります.現在豊田被告は最高裁の審判を待つ未決拘留者であるため,接見を通じた外部との交流が可能です.本書の記述も全て,事実関係の確認のために彼が目を通しています.しかし死刑が確定してしまえばもう接見はできず,豊田被告はいわば「社会的に人格が存在しない扱いとなる」そうです.それは,ようやく明らかになりかけている真実が埋没し,社会の根本的な問題を解決する機会が今回も失われてしまうことを意味します.この本が今出版されなければならなかった切実な理由がここにあります.

前半でも書きましたが,「オウムは殲滅しろ」「全て殺していい」という考え方は,例えれば害虫駆除と変わりがなく,根本的な問題解決をもたらすものではありません.徹底はしているように見えて,実は単なる対症療法です.他にもカルトの教祖や祈とう師まがいの危険人物が実際に不可解な事件を起こしていたり,まだ目に見えていない存在も無数にいるはずです.そうした教祖的な人物が多くの人を巻き込んでしまう危険を防ぐには,そこから精神的に脱出した人物の情報とその分析は欠かせないはずです.

その意味で「死刑」に関する問題提起もこの本ではなされています.米国連邦裁判所は,911テロ事件の唯一の生き残りである被告に対して無期懲役の判決を下し,死刑を求刑していた検察は上告しない決定をしました.生かしておくことにより,事件に関する情報源として終生利用することを選んだのです.それが「再発防止のための叡知」であり,豊田被告の裁判をそうした観点から見直してほしい,と伊東氏は最高裁の判断を前に訴えています.

死刑を正当化する考え方の1つに,犯行を思いとどまらせるための「威嚇力」としての効果があります.これは犯罪「予防」の考え方です.一方,矯正不能なほど凶悪な人物が社会に復帰して再び犯行を犯さないように「究極的に隔離する」手段が必要とする考え方もあります.こちらは犯罪者に対する「対処」の観点です.

豊田被告について,後者(すでに罪を犯しているので)を適用することの是非を問うとしましょう.「自分のしたことは完全に間違いで,取り返しのつかない被害を与えてしまった.自分には生きる資格がない」と言明して再発防止教育に協力する人物(犯人)に対し,「矯正不能」と判断したり,「再犯阻止の究極的な手段」を講じたりすることが正当と言えるでしょうか.

また,彼が死刑を免れた場合に「それならこのくらいの犯罪では死刑にならない」と考える新たな凶悪犯を生むことになるのでしょうか.その可能性と,伊東氏が主張する「生かしておくことによる問題解決への可能性とその効用」とを比較した場合,後者に期待する方に妥当性があるとは思えないでしょうか.まして,過去にも増して多種多様なマインドコントロールの手段が存在する現代社会においては,その害悪を予防するための科学的アプローチを真剣に考えるべきだと思いました.

オウム自体に今後存在する意義はないでしょう.ただしオウムについて徒に避けずに議論すること,なぜオウム事件が起きたかを直視することは必要です.「オウムは小日本なのだから」という伊東氏の言葉は非常に重みがあります.
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by t-globe | 2006-12-03 02:22 | Entertainment

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